精神分析的サポーティブセラピー(POST)入門を読んで

 だいぶ久しぶりのブログになってしまいました。

 先日精神分析学会が終了し、そこで購入した精神分析的サポーティブセラピーPOST入門を読みました。いろいろと話題になっている本ですが、基本的にさらっと読めて、特に若い方やこれから精神分析的アプローチを学ぼうと思っている方にはおすすめしたい本だなと思います。
 当オフィスでPOSTを実践することはあまりないですが、私が勤務している精神科クリニックでの面接は8割~9割がPOSTといって良いだろうと思っています。

 書籍は納得感が強く、「全くその通り」と思える箇所がたくさんあるのですが、一方で何かモヤモヤ感もずっと一緒に生じていました。そのモヤモヤが言葉にならなかったので、学会で執筆者の方々が実施していた精神分析的サポーティブセラピー(以下POST)の教育研修セミナーもオンラインで視聴してみました。そうすることで、徐々に自分の中のモヤモヤ感やPOSTに対する考えが言語化できそうに思えたので、今日は書いてみたいと思います。


1.とりあえず輪郭づけした「POST」
 従来名前のついていなかった『分析的な理解を活かした(に支えられた)日常的な面接』にPOSTという名前をつけたという試みはとても有意義なものに感じました。名前がつくと、そうした実践を議論しやすくなるからです。
 執筆者の山崎先生はセミナーの中でPOSTを、「臨床現場」からボトムアップ的に輪郭づけられたものとして説明していました。ある実践にPOSTという名前をつけて考えようとすると、「POSTは精神分析的セラピーの支持的要素が濃いものとどう違うのか」「理論的な位置づけはどうなるのか」といった疑問や、「そもそもPOSTと輪郭づける必要があるのか」といった意見が生まれます。セミナーでは指定討論の伊藤先生がこうした指摘をされていましたが、この点は私も同感です。ただ、この議論を始めてしまうと、かなり複雑な議論になってしまいますし、考え続けることは大事だと思いますが、そこまで結論を出すことに意味があるだろうか、というのが正直な思いです。
 おそらく執筆者の方々もこのような意見は重々承知していると思いますが、ただPOSTで重視したいのはそこじゃない、という思いがあるのではないかと思います。教育研修セミナーで山崎氏が『日常臨床の中で精神分析の理論を使っている人たちが、「でもちゃんとした訓練受けてないし、ちゃんとした分析セラピーじゃないから発表できない」となってしまうことはあまりにも勿体ない』という主旨の発言をされていましたが、私も全く同意見です。精神分析理論を活かしながら行っている臨床実践に「とりあえず」名前をつけて、精神分析的セラピーを議論する場とは別に、議論の場を設けるということを重視されているのだと思います。

 私が山崎先生の意見に賛同するのは、これまでの私自身の体験がそれを支持するものだからです。私は精神分析が全く主流ではない大学院に在籍していたので、かなり外のセミナーで精神分析を学んでいたのですが、卒業後に多くの同期から連絡を受けることになりました。それは「精神分析理論を学ばないと病院でやっていくのが大変だ」、「精神病や病態水準を理解するのにおすすめの本はどれ?」、「精神分析の初心者向けの本ない?」といった内容です。彼らは必ずしも精神分析的セラピーを実践していくことを目指していたわけではありません。しかし、日々の実践の中で精神分析的な理解や理論を使用することは多いに役立っているようでした。その後、私はピアグループをいくつか立ち上げ、いろいろな現場で働く人たちと共に精神分析理論を学んできましたが、「やはり精神分析はいろいろな形で日々の実践に役立つ」ということを実感し続けてきました。今もその思いは変わりません。
 そういった体験を経て、私は当時「精神分析を“(座学で)勉強すること”」の意義についてもっと強調されてもいいのに、と感じていました。精神分析家になるには正式な訓練を経ないといけないけど、精神分析理論を座学で学ぶだけでも日々の臨床実践に活かせる、役に立つ、という感覚があったからです。

2.私のPOST理解
 次に、書籍やセミナーを視聴した上での私のPOST理解について書いてみます。まず、POSTなる実践があることは自分自身の日々の臨床生活を振り返っても十分に理解でき、納得感が強いと感じます。
 書籍やセミナーの中で出てきた表現を使いながら、私の中でPOSTを言語化するとしたら「精神分析理論を後方に配置しながら、その臨床家が自分の持っている臨床的な手札を駆使して、患者の現実適応を支える心理面接」になるかなと思います。

 セミナーの中で参加者の方から「発表者の先生方は使えるものは何でも使ってるんですか?実際どんなものを使っているんですか?」という質問がありました。節操なく使うことへの警鐘をならしつつ、ある先生は「腹式呼吸の練習」、別の先生は「本の紹介」などを例として挙げていました。私自身は上記の2つを行うことはあまりないですが、助言、心理教育のほかにCBT的、行動療法的な介入は用いたりします。POSTを実践されている先生方は上記の介入に対して「私も使っている」とか「私はソリューションの技法が多いな」などいろいろな感想があると思います。ここには手札の違いがある(重なりももちろん)ということですが、どれもPOSTをやっていることにかわりはないでしょう。
 つまり、POSTをPOSTたらしめている最も重要な要素は「後方に精神分析理論を置いている」ということだと思います。

 ここまできてやっと私の当初のモヤモヤ感に入るのですが…
 私が感じたモヤモヤ感は、『POSTの書籍やセミナーの中で出てきた「心に留め置く解釈」、「転移外解釈」、技法ではないが「自我を支持する」「退行抑止的に関わる」という姿勢・方針などはPOSTの中でもかなり「難しい」技法ではないだろうか』というものです。

続きます。

3.POSTのトレーニングについての私見
 関先生があとがきに「『POSTを学びたい』と思った時に何をどう学べばいいのかについては手がかりが何もなく、それについての議論は充分にはされていません」と記載しています。確かに現段階でそうなのだと思います。
 まず前提として、「POSTをPOSTとして学んだ」という人はいないと思います。発表者の方もそうだと思いますし、私もそうです。POST、つまり『精神分析理論を後方に置きながら様々な手札を駆使して行うサポーティブセラピー』を行っている方々が学んできたのは、精神分析理論でしょう(もちろんその他の手札になるものも同時並行的に学んでいるわけですが)。当たり前といえばそれまでですが、精神分析理論を後方に配置するためには、『POSTを学ぶ』のではなくて、精神分析理論を学ばなければいけないということです。

 ただこのときに「学ぶ」にはスペクトラム、または段階、様々な方法があると思います。精神分析理論を学ぶときには座学などの知的な理解から、ピアグループ、ケース検討会、グループスーパービジョン、自分で行う実践、個人スーパービジョン、個人セラピーなど体験的な学びまで幅があります。その方の経済状況や地理的な問題などによって、どのような学びが行えるかは異なります。しかし、POSTにおいて大事なことはどの学びの段階にいる人であっても、POSTを実践することは可能だという点でしょう。

 ただそのときに、学びの段階によって積極的に使用できる技法は異なるのではないか、というのが私の考えです。ここで私が指摘している点は、山崎先生が書籍で書いている「使いやすい精神分析」と「使いにくい精神分析」に関連した話です。

 書籍のp26に「訓練セラピーなしでも知識は活用できると述べましたが、精神分析の治療論や技法は訓練セラピーなしに日々の臨床実践にそのまま役立てることは難しいでしょう」と山崎先生は書いています。そして、あとがきで関先生は、POSTは訓練セラピーなしでも行える実践であるということに触れています。この論からすれば、精神分析の治療論や技法はPOSTでは使用できないことになります。つまり、「心に留め置く解釈」や「転移外解釈」は精神分析の技法論だと思うので、訓練セラピーなしには使用できない、となってしまいます。

 ただこれはもちろん書籍を批判したいわけではなくて、「程度問題だ」という話に落とし込めるのではないかと思います。
 つまり、精神分析理論を座学で学んでいるだけの状態の場合は、見立てやアセスメントに理論を活用しつつ、介入としては精神分析由来の技法を使用することは控え、そのほかの手札を駆使する必要があるでしょう。そこに、体験的な学習が重なるにつれて精神分析由来の技法も少しずつ手札として使用していく(もちろんPOST的な注意点を意識しつつ)のが良いのではないか、ということです。
 これは体験的な学びを経るまで分析的技法の使用を禁止すべきとか、段階によってあなたはここまで使っていいけどこれは使ってはダメ、とかそういう管理・支配的な発想を示唆しているわけではありません。精神分析理論を『後方』に配置しているわけなので、分析由来の技法の使用については慎重であるべきだろう、ということです。

 このように考えるのは、やはり体験的学習の重要性は強調しても強調しきれないほどある、と私自身がこれまでの経験上感じているからです(書籍でもそのことは繰り返し述べられています)。書籍から精神分析は学べない、というのはよく聞く言説ですし、実際私もそのように思っています。
 たとえば「退行」という現象を知的に理解することと、ある種の設定の中で患者が退行に至るのを目の当たりにすることは明らかに異なりますし、そういう体験を経て、「こういうことだったのか」と知的な理解が腑に落ちることは精神分析理論を学ぶときには数限りなくあります。理論学習だけではなく体験的学習が重なる中で「自我を支えるとはこういうことか」「退行を抑止するとはこういうことか」ということが“徐々に経験的に”わかってくるのだと思います。※もちろんその「わかった」体験についてはその後も何度も修正されたり吟味されたりする必要があります

 このように書いてしまうと、結局精神分析の体験的な訓練を経ないとダメってことじゃないか、と言われてしまいそうですが、そうではありません。POSTの中にもスペクトラムがあるということです。

ここまでの要点
・POSTを学ぶとは、精神分析理論を学ぶこと
・理論学習をすることでPOSTは使用可能になる
・体験的な学びが深まることで、精神分析由来のPOST技法が使用できる可能性が高まる

上記のように私は考えています。そのため「POSTを学ぶためにはどうすればいいですか?」という質問をされた場合には「まず書籍を読み、セミナーに行き、座学で学ぶ」と答えるのが現段階でベターなのではないかと思います。その方の経済的、地理的なリソースによってはピアグループやケース検討会などの体験的な学びに触れることをお勧めするという感じでしょうか。

 まとめると、POSTのトレーニングとは、「精神分析理論を座学で学ぶこと」と「臨床的な手札(他アプローチの)を増やすこと(いくつかを深めるでも良い)」という二つの軸から形成されるものだと私は考えています。この二つを十分に学ぶことで、POSTは「使用できる」と思います。そしてさらに、精神分析における体験的な学びの要素が加えられるなら加えた方がもちろんいい、と思います。加えた方が精神分析由来のPOST技法を手札に少しずつ加えることができるということです。

 精神分析理論を学び始めの方や若い方にとっての指針・方針としては上記のような理解が現実的ではないかと思います。

 さらにPOSTの技法に関することで書きたいことがあったのですが、長くなりすぎたのでそれはまたの機会にしたいと思います。
 POSTは、中身を議論するために日々の実践を「とりあえず切り取った」概念なので、「とりあえず切り取った」ということ自体を批判的に見る動きはあるでしょう。しかし、そこだけに目を向けるのではなく、POSTなる実践の中身について議論が盛り上がればいいなと私自身は思っています。

2023年11月17日