自らを偽り続けることによる苦しみ



 心理療法や心理カウンセリングの仕事をしていると「本当の自己」「偽りの自己」といった表現に出会うことがあります。こうした言葉は本質的なことに触れているようにも感じますが、占いや自己啓発への使い古された誘い文句のように感じる方もいらっしゃるでしょう。

 精神分析の世界ではウィニコットという小児科医でもある精神分析家が「本当の自己」「偽りの自己」という概念を提出しています。※1


 ウィニットは「偽りの自己」という概念を不健康な状態から健康な状態までの程度の差があるものとして捉えました。


 私たちは常に「本当の自己」で生活しているわけではなく、ある程度「偽りの自己」を機能させて生活しています。それは社交的な態度であったり、相手や場面に合わせて自らの振る舞いを変えたりすることです。一方、家で1人くつろぐ瞬間や恋人や家族と過ごす時間はより「本当の自己」に近い状態で居られる方が多いと思います。わかりやすくいうならば「素」に近くなるということです。



 しかし、自分の生活の多くの時間を「偽りの自己」で過ごさねばならない方もいます。例えば、家族と過ごす時間も過度に偽りの自分を形成しなければならないと感じられる方もいらっしゃるでしょう。恋人との関係こそ無理をして作っている、と感じる方もいるかもしれません。こうした方は自由であるとか、気楽に過ごすとか、くつろぐという体験がしにくくなります。「スイッチを常に入れておけねばならない」とか「常に演技している」という感覚が付きまとうこともあるでしょう。そして自分が本当はどう感じているのか?ということに疑問を抱く方もいらっしゃいます。


 また、生活のほぼ全ての時間が「偽りの自己」で覆われている方もいらっしゃいます。こうした方の場合、「スイッチを入れている」という感覚やイメージがそもそもなかったり、「演技をしている」とか「無理をして合わせている」という感覚を持ち合わせていなかったりすることが多くあります。ではそれは「偽りの自己」ではなく「本当の自己」といっていいのではないかと思われるかもしれません。しかし、このような無意識に無理をしている状態は、その方に何らかの歪みをもたらすことがあります。


 例えば、以下のような場合などです。
・不満やストレスの「自覚は全くない」にも関わらず、あるとき突然学校や会社に行けなくなってしまう方
・普段全く感じていないような他者への非難や不満を衝動的に吐きだしてしまい、そのような自分に戸惑われる方
・順調で全く問題ない社会生活を営んでいるのに、リストカットや過食嘔吐、抜毛、性的逸脱行動など、特定の行為をやめられないと感じている方
・客観的には成功していると認識され、自分でもそう認識できるのに、生きている実感が持てない、味がしない、楽しいとか悲しいとか感情的な実感が持てない方


 それぞれ出ている症状や問題が異なるので、たとえば精神科や心療内科にかかれば診断名は異なるでしょう。しかし、背景には「偽りの自己」の肥大化が問題となっている場合があります。
※もちろん上記に挙げたような問題が全て偽りの自己で説明できるわけではありません。


 「偽りの自己」は誰しもがある程度持っていることからもわかる通り、生きていく上で必要なものです。それが肥大化してしまう背
景には、何らかの個人的な事情がある場合も少なくありません。

 まず挙げられるのは虐待やネグレクトなどでしょう。そのほかにも、相手(親や家族など)に合わせねばならない状況にいた方、合わせることが無意識に求められていた方(ご本人は自覚がない場合)、ある種の強い教え(教育方針・宗教など)を周りの方から押し付けられていた方、自分が主張・要求すると相手が壊れてしまうのではないかと感じてきた方などがいらっしゃるかと思います。



 精神分析的心理療法はこのような「偽りの自己」による苦しみや問題に触れ得るアプローチです。それは端的に言えば「本当の自分に出会う」と表現されるものではありますが、楽しく美しい体験になるわけではありません。

 知らなかった自分の一部(情緒や考え)に出会う体験であり、それは痛みや苦しみ、拒否したい思いを伴うこともあります。しかし、これまでとは違った感覚や見方、体験をもたらしてくれる有意義なものでもあります。

※精神分析的心理療法にご興味のある方は予約申し込みの段階や初回面接の際にその旨お伝えください。初回面接やアセスメント面接の中で、導入するか一緒にご相談させていただきます。


※1 D,W,Winnicott(1960) 本当の、および偽りの自己という観点から見た自我の歪曲

2021年06月16日