自らを偽ることの苦しみ:偽りの自己
(偽りの自己、本当の自己、ウィニコット、精神分析、本音と建前)
心理療法や心理カウンセリングの仕事をしていると「本当の自己」「偽りの自己」といった表現に出会うことがあります。こうした言葉は本質的なことに触れているとも感じますし、占いや自己啓発への使い古された誘い文句のように感じる人もいるかもしれません。
精神分析の世界では、小児科医でもあるイギリスの精神分析家ウィニコットが「本当の自己」「偽りの自己」という概念を提出しています。※1
ウィニットは「偽りの自己」という概念を不健康な状態から健康的な状態までの程度の差があるものとして捉えました。
私たちは常に本当の自己で生活しているわけではなく、ある程度偽りの自己を機能させて生活しています。それは社交的な態度であったり、相手や場面に合わせて自らの振る舞いを変えたりすることです。一方、家で1人くつろぐ瞬間や恋人や家族と過ごす時間はより本当の自己に近い状態で居られる方が多いかと思います。わかりやすく言うならば「素」に近くなるということですね。
しかし、こうした偽りの自己の機能を自身の生活のかなり多くの時間で使用しなければならない方もいます。例えば、家族と過ごす時間も過度に偽りの自分を形成しなければならないと感じられる方もいらっしゃるでしょう。恋人との関係こそ無理をして作っている、と感じる方もいるかもしれません。こうした方は自由であるとか、気楽に過ごすとか、くつろぐという体験がしにくいと考えられます。「スイッチを常に入れておけねばならない」とか、「常に演技している」という感覚が付きまとうこともあるでしょう。そして自分が本当はどう感じているのか?ということがわからなくなるという感覚に苛まれたりします。
また、上記のような方以上に生活のほぼ全ての領域が偽りの自己で覆われている方もいらっしゃいます。こういった方の場合、「スイッチを入れている」という感覚やイメージがそもそもなかったり、「演技をしている」とか「無理をして合わせている」という感覚も持ち合わせていなかったりすることが多くあります。
では、それは「偽り」ではなく「本当の自己」といっていいのではないかと思われるかもしれません。しかし、無意識にこうした生活を続けている方の中には、唐突に症状や問題行動が生じたり、一見関係ないと思われるような行動や癖を生活の中で抱えたりしている場合があります。
例えば、以下のような場合などです。
・不満やストレスの自覚は全くないにも関わらず、あるとき突然学校や会社に行けなくなってしまう方
・普段全く感じないような他者への非難や不満を衝動的に吐きだしてしまい、そのような自分に戸惑われる方
・順調で全く問題ない社会生活を営んでいるのに、リストカットや過食嘔吐、抜毛、性的逸脱行動など、特定の行為をやめられないと感じている方
・客観的には成功していると認識され、自分でもそう認識できるのに、生きている実感が持てない、味がしない、楽しいとか悲しいとか感情的な実感が持てない方
このような例はそれぞれ出ている症状や問題が異なるので、精神科や心療内科に行かれた場合、診断名は異なるでしょう。しかし、背景には「偽りの自己」の肥大化が問題となっている場合が多くあります(もちろん上記に挙げたような問題が全て偽りの自己で説明できるわけではありませんが)。
偽りの自己は誰しもがある程度持っていることからもわかる通り、生きていく上で必要なものです。それが肥大化してしまう背景には、何らかの個人的な事情がある場合も少なくありません。まず挙げられるのは、幼少期・学童期に虐待やネグレクトの環境で生きてこられた方です。そのほかにも、相手(親や家族など)に合わせねばならない状況にいた方、合わせることが無意識に求められていた方(ご本人は自覚がない場合)、ある種の強い教えを保護者の方から押し付けられていた方、自分が主張・要求すると相手(養育者)が壊れてしまうのではないかと感じる状況にいた方などがいらっしゃるかと思います。
精神分析的心理療法では、このような『偽りの自己』の問題を抱えた方も対象にしています。それは「本当の自分に出会う」ことを目指す営みになりますが、楽しい体験になるわけではありません。知らなかった自分の一部(情緒や考え)に出会う体験であり、それは痛みや苦しみを伴うこともあります。
しかし、これまでとは違った実感や見方、体験を自分にもたらしてくれると思います。
精神分析的心理療法にご興味のある方は予約申し込みの段階や初回面接の際にその旨お伝えください。アセスメント面接を経て、導入するか一緒にご相談させていただくことになります。
※1 D,W,Winnicott(1960) 本当の、および偽りの自己という観点から見た自我の歪曲
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発達障害かもしれない、と思われる方へ
発達障害かもしれない、と思われる方へ
(発達障害、自閉スペクトラム症、ADHD、不注意、対人関係)
「発達障害かどうか診断してほしい」という大人の方の相談が、最近精神科や心療内科に多く寄せられているようです。「大人の発達障害」という言葉もよく見かけるようになりました。そして、私もこれまでの臨床経験の中でこういったご相談をたくさん受けてきました。そのため、今日は「発達障害かもしれない」という大人の方の相談について、私の体験をもとに書いてみたいと思います。
※ちなみにこのブログの中で使用する「発達障害」という言葉は、「自閉スペクトラム症」と「注意欠陥多動性障害(ADHD)」をまとめた言葉として使用しています。ちなみに「アスペルガー症候群」、「広汎性発達障害」、「高機能自閉症」といった言葉も「自閉スペクトラム症」に含まれているとお考えください。
発達障害が具体的にどのような定義・概念であるか、その歴史的変遷などはここでは詳述しません。ただし重要な点として押さえておきたいのは、「診断が難しい」ということと、「原因がはっきりしていない」ということでしょう。
※発達障害という概念のわかりにくさ、診断の難しさについては「こどものための精神医学」という滝川一廣先生の本が非常にわかりやすいです。
「発達障害ではないか」「発達障害かもしれない」という不安を抱え、相談に訪れる方の多くは「対人関係の問題」と「不注意の問題」を訴えることが多いように感じられます。対人関係の問題としてよく訴えられる主訴には、職場でうまくいかない、友人関係が続かない、親子・夫婦関係の問題、(職場、学校で)いじめられやすいなどが挙げられます。そしてその結果、転職を繰り返している、ひきこもっている、孤立しているといった状態になっていることがあるようです。不注意の問題には、忘れ物が多い、物をなくす、遅刻が多い、同時に2つの事が出来ない、整理整頓出来ない、仕事の段取りがうまく立てられないなどが挙げられます。そしてその結果、上司に怒られる、日常生活がうまく回らない、進級が危ういなどといった状態になっていることがあるようです。
ちなみにこういった困り感の報告だけでは発達障害かどうかはわかりません。こういった症状がいつからか、どの程度か、どのような状況で問題が起こるのか、他の困り感はあるかなど詳細に聴いたり、心理検査を行ったり、他の疾患を除外したり、親御さんからお話を聞いたりして最終的に主治医が診断を行います。なぜならば、上記のような困りごとは発達障害の方でも生じますが、他の疾患や性格傾向、生育歴の影響など様々な要因で生じるからです。
上記のような精査をした結果、
A:診察をした主治医も検査をした心理士も発達障害であろうと合意できる場合
B:発達障害かどうかについて両者の見解に違いが生じる場合(最終的な判断は当然主治医になりますが)
C:心理士も主治医も発達障害ではないだろうと判断する場合
の3つのパターンのいずれかに基本的にはなると思います。
AとBのパターンについては発達障害の傾向がある程度認められるだろうということで、福祉サービスの利用や服薬、診断書の発行、職場や学校での調整(合理的配慮)、生活上の工夫の相談、心理教育などが、ご相談者様の意向を踏まえながら検討されます。
※発達障害かどうかだけわかればいい、とその後の支援や診察を一切求めない方も多くいます。
重要なのは3つ目のパターンです。発達障害ではないだろうと思われる方々です。発達障害ではないかもしれませんが、その方々が対人関係の問題や不注意の問題で苦しんでいるということが否定されるわけではありません。つまり、それらの問題は発達障害以外の他の要因によって生じている可能性があるということです。
ではどのような問題が背景にあるのでしょうか?大まかにいうと、他の疾患・障害である可能性や、心理社会的な要因が背景にある可能性などが考えられます。
1つ具体的な例を挙げながら考えてみたいと思います。
【不注意なミスに困って来院したAさん】
営業職に従事するAさんはダブルブッキング、忘れ物、遅刻が多く困っており、ADHDではないかと考え、来院されました。Aさんはこういったミスをしてしまう自分を過度に卑下し、落ち込まれていました。思春期以降くらいからこういったことに悩まれているようでした。
Aさんのお話を聞いていくと、業務量があまりに多く、休みなしで働かれているようでした。睡眠や生活習慣も不規則で、このような状態ではミスも生じてしまうだろうと思わずにはいられない状況でした。しかし、特徴的なのはAさんが「これは社会人としては当たり前の量で自分はまだまだ足りない」と繰り返していたことです。このようなあまりにストレスフルな仕事状況が最終的にはスケジュール管理、物の管理のミスとしてAさんの場合生じていたようです。そしてAさんは、自身がこのような状況に苦しんでいるにもかかわらず、この働き方をなかなか変えられずにいるということに悩み始めました。
果たしてAさんは発達障害、特にこの場合はADHDなのでしょうか?お母さまにきていただき、幼少期・学童期のAさんについて聴くと、どうやらAさんは小学校の頃は真面目で優等生であり、忘れ物や整理整頓は得意ではないが、さほど問題だと感じたことはないと思うとのことでした。心理検査時の様子も、衝動性よりも、ミスを恐れ過度に慎重に取り組む様子が観察されました。
Aさんは主治医の勧めもあり、カウンセリングを開始しました。すると、Aさんの自覚していなかった「無意識的な不安」があることがわかってきました。それは言葉にするならば、「誰かの役に立っていないと自分は存在していないのも同然だ」というものです。こういった「無意識的な不安」を緩和するためにAさんはがむしゃらに働いていたようです。徐々にAさんの働き方の極端さが際立つエピソードも語られるようになり、頑張り過ぎていることがはっきり共有されていきました。カウンセリングを継続していく中で、こういったAさん自身の不安が緩和されていき、それに伴って不注意症状は大幅に改善されました。そもそもの働き方自体が変化したためです。
これはもちろん私が経験したことをアレンジして書いた創作のケースです。そして、具体的な治療プロセスを省略して結論だけ書いております。実際には「無意識的な不安にAさんが気づくまで」、「Aさん自身の不安が緩和されていくまで」にはある程度の時間がかかっています。
このAさんはADHDとは診断されませんでした。Aさんのように、発達障害が原因ではない「不注意」の背景に、その方の性格・価値観・考え方や行動の特徴が見られ、そのことが知らず知らずのうちに生活に歪みを生じさせているということがあります。
対人関係の問題を理由に「自分は発達障害かも?」と来院される方の中にも、ご本人が自覚していない感情や考えが背景にあり、それが影響を与えてしまっている方もいます。それは例えば、自信のなさ、自己嫌悪、承認欲求、嫉妬心や羨望、怒りや攻撃性、親しみや愛情、猜疑心や信頼感などに関わるものです。
最後に
アダルトチルドレン、発達障害、HSPなど様々な心の苦しみや人間関係の苦しみを表す言葉はときに「流行り」ます。こういった言葉を知ることをきっかけに多くの人が自分について考え、カウンセリングオフィスや相談機関を利用しやすくなるとしたら、それは良いことかもしれません。しかし、「流行る」ことは良い影響だけを生むわけではないので、注意が必要です。
表に見えている困り感だけ切り取れば、多くの方の困りごとは「発達障害かも」と見ることもできます。しかし、背景にはいろいろな問題が隠れており、発達障害と診断される方もいれば、そうではない診断や見立てを伝えられることも多々あります。
大切なことは、その方自身の困り感の中身であり、ひとりひとりの個別性を私たちが常に忘れず向き合うことだと思います。
発達障害かもしれない、と悩まれている方はぜひお気軽に池袋心理オフィスにご相談ください。発達障害の可能性について、丁寧にお話を伺い、見立て・アセスメントをお伝えいたします。また、対処についてのご相談を行うこともできます。ただし、当オフィスは医療機関ではないので、診断書や正式な診断を行うことはできませんのでご了承ください。
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カウンセリングの頻度について
「カウンセリングには、どれくらいの頻度で通えばいいんでしょうか?」
これはカウンセリングを希望される方からよくされる質問の一つです。
カウンセリングの頻度は「週1回」「隔週に1回」「月に1回」「必要に応じて」のいずれかになることが多いと思います。上記の4つをベースに、基本的には心理士とクライアントとの間で相談して決めることになります。また、当オフィスで精神分析的心理療法を行う場合は、週1回のほかに、週2回、週3回を提案する場合もあります。ちなみにフロイトが考案した「精神分析」という方法は週6回面接を持つところからスタートしています。
では、この頻度を相談して決定する際に、ポイントになるのはどのようなことかについて少し書いてみたいと思います。あくまで私の考えであるということをお断りしておきます。
私がもっとも大切にしていることは、『相談者の主訴(相談内容)がどのようなものか』という点です。
主訴がその方のパーソナリティ、性格、生き方にかかわるものであり、かつそういった根本的な部分からの変化を相談者が求めている場合には、週1回(または2、3回)の頻度を提案することが多くなります。なぜなら、頻度が多くなればなるほど、カウンセリングの時間に支えられながら、自分のこころの触れにくい部分や、気づいていなかった自分自身の一部と交流しやすくなるからです。こうしたタイプのカウンセリングを行う場合には、痛みやこころの揺れを伴うからこそ、頻度を多く設定します。
反対に、相談者の主訴が特定の人との関係性や、特定の状況に対する対処、特定の症状の緩和や解決などに限定されていて、相談者も基本的にはそこに焦点化して取り組みたいと希望されている場合には、頻度は隔週1回を提案することが多くなります。
相談内容が具体的で限定的な場合には、カウンセリングで検討したことを実生活で試してもらい、次の面接で振り返るなども行うため、面接と面接の間隔をあける必要があります。また、不必要に頻度を多くすると、相談者が望んでいないにもかかわらず、思いがけない形でこころの深い部分に触れてしまう場合もあります。そのため、具体的な相談の場合は隔週に1回くらいが適切な場合が多くなるでしょう。
『月1回』や『必要に応じて』という場合についてです。正直なところ、私のほうから初回面接時にこのような頻度を提案することは、あまりないかなと思います。そういった頻度では、カウンセリングで何かを提供することが非常に難しくなってしまうからです。そのため、このような頻度で面接を継続するのは、下記のような場合に限定されると思います。
・週1回や隔週1回の面接をある程度の期間行い、問題が改善した方が経過観察としての面接を希望される場合
・ある程度ご自身で問題に対応しているが、専門家から少し異なる視点の意見も欲しいと希望される場合
・傾聴されることや、自分の頭の中を整理すること、こころのメンテナンスのために来所される場合(解決や緩和・改善を望むような問題が特別ない場合)
・継続的な面接を提供しない方が相談者のためだと判断される場合
いかがでしょうか。
カウンセリングの頻度については、上記のようなことをポイントに検討していきます。
英会話を例にとっても、海外で仕事も生活もしようと思う方の場合と、ときおりある英語でのプレゼンのために英語を習いたい方の場合では、そのレッスンの頻度は異なるでしょう。特に前者の方の場合は、英語が人生にかかわる事柄になりますので、留学やホームステイなど、より濃密に英語に触れる必要があります。しかし後者の方の場合はそこまでの濃密さは必要ないかもしれません。
カウンセリングも同様で、人生や生き方にかかわる問題に取り組む方の場合は、頻度は多い方が効果的だと思いますし、今目の前にいる上司との関係に困っている方の場合は、必ずしも高頻度でなくても対応できるかもしれません。
少しわかりやすいように実例を出します。あくまで目安にしていただくためのものです。絶対こうだ、というものではありません。
・適応障害で休職中の方が、復職を目指すために通勤の練習やストレス対処について相談したい場合は隔週に1回で行うが、その方が復職後に同じような理由で休職に至らないために、自分自身の対人関係の在り方について変化を目指したい場合は週1回を提案する
・今、恋人との関係で不適応に陥っておりどう対処すべきかを相談したい場合は隔週に1回で行うが、これまでも恋人と同じ似たような不適応を繰り返しており、自分自身の恋人との関係の繰り返しついて根本的な部分に焦点をあて取り組みたい場合は週1回を提案する
すごく単純化して書いてますが、例えば上記のような感じになります。
そしてもちろん最終的には、相談者の経済状況・生活状況など現実的な側面も考慮して、決定していきます。
ここで書いたことは決して「こうすべき」という話ではなくて、あくまで頻度を考える上での考え方の軸になるものです。
カウンセリングを検討されている方はぜひ参考にされてください。
漫画「凪のお暇」と自己犠牲的な性格について
漫画「凪のお暇」と自己犠牲的な性格について
(自己犠牲的、自虐的、自責的、他人のために動く)
先日「凪のお暇(なぎのおいとま)」という漫画が完結しました。ご存じでしょうか。
この漫画の主人公「凪さん」は、他人に合わせる生き方を小さいころから続けてきた20代のOLさんです。「空気読んでこー」を口癖に、相手の意見に同調し、自己主張せず、波風立てないように社会人生活を送っています。その結果、会社では雑用や面倒な業務が自然と凪さんのもとに集まり、過重業務に苦しみます。凪さんは、周りのみんなと比べて自分は存在価値の低い人間だから、そのように人よりも頑張ったり、身を削って働いたりするのは仕方ないと考えています。もちろん日々の生活の中で周りの人間に対して「あれ?」「ん?」と思うことがないわけではありませんが…。
漫画は、凪さんがこのような苦しいOL生活をやめ、空気を読む自分からの脱却を目指し、自分らしい生き方を模索していくところからスタートします。「自分らしい生き方を模索」なんて書くと、何かとても前向きな物語のように感じてしまうかもしれません。しかし、実際にはそんなことはなく、凪さんの新生活は苦難の連続になります。
どういうことか…。それは「空気読んでこー」的な生き方は、なかなかやめられず、凪さんはことあるごとに無意識に同じことを繰り返してしまうのです。また、空気を読まずに自分の本音に触れようとすると、そこでは見たくなかった自分のドロドロとした情緒に向き合うことになります(もちろん気づいていなかった自分の好意や喜びに触れたりもします)。凪さんは何度も自己嫌悪に陥りながら、自分と、そして他人の本当の姿を知っていきます。
この漫画は、自己犠牲的に生きてきた方が変化していくときの、綺麗ごとでは済まされない様々な苦しみを見事に描いており、とてもユニークな作品です。その苦しみを全体的にコメディタッチで描いているので、読んでいてとても面白いです。また、漫画の後半では、凪さんがどうしてこのような自己犠牲的なパーソナリティを形成するに至ったかについても、徐々に明らかになっていきます。
精神分析家である北山修は凪さんのような自己犠牲的な生き方をする方を「自虐的世話役※1」パーソナリティとして概念化しています。特に「鶴の恩返し」の「おつう」を例に挙げながら北山は論じています。自らの身体を痛めつけながら男性(他者)のために機を織り続けるあの「おつう」ですね。
自虐的世話役パーソナリティについて、北山は3つの特徴を指摘しています。
(1)自分を犠牲にしてでも他者の世話を焼く、面倒見がよい働き者
(2)誰かに頼ったり甘えたりすることを自分に対して許容できない
(3)こころと身体を酷使して、頑張ることにある種の快感や満足感を抱いている
北山はこうしたパーソナリティを有している人が、様々な適応水準に幅広く存在することを論じています。確かに自虐的に世話を焼く傾向は、程度によっては面倒見のいい人であり、職場で重宝される働き者でもあります。どんな職場にも1人や2人はいるのではないでしょうか。しかし、この傾向が過度になると自己破滅的な生き方になったり、極度に「自分」がない生き方になってしまう場合もあります。
このような自虐的世話役と思われる方が心理療法やカウンセリングを求める場合は様々な精神科症状や問題行動が表面化している場合が少なくありません。心身症、ストレス反応、過度な自責による抑うつ、自傷行為などです。
また、人間関係の問題を抱えている場合もあります。
●献身的で受け身的であるがゆえに、いいように利用されたり、過度な期待を向けられてしまったりする場合
例:凪さんの場合:広く受け容れてくれる人だと思われ、男性から過度な期待や恋愛感情を向けられたり、同僚にいいように利用され仕事をふられたりしています…
●周りのために自己犠牲的に行動しているにもかかわらず、気づかれない・感謝されないため、そのことへの怒りが蓄積され、あるとき無意識に爆発する場合
例:これは全く無自覚に爆発したり、または自傷行為や何らかの問題となる行動で表現される場合があります
●本当の自分の気持ちで人と接することが少ないために、誰とも親密になれず、孤独感を抱え続ける場合、また親密になれない結果、人間関係を定期的に切ってしまう(切れてしまう)場合
例:凪さんもOLをやめるときには同僚との関係や恋人との関係、全てを切り捨ててみんなの前から消えてしまいます(彼氏さんにはその後発見されますが)、また凪さんは自分が他者を見下しており、本当には心から関わっていないということに気づいたりします。
無意識に自己犠牲的に行動し、そのことに苦しみつつも、我慢し耐えることが正しいと感じている方は、多くいらっしゃるのではないでしょうか。自虐的世話役パーソナリティの方は、過剰な苦しみを抱えつつ生きることが「当たり前」だと感じている場合も少なくありません。そのため、「苦しい、辛い」と口にすることさえも、悪いことだと考えている方もいらっしゃいます。
では、そういう振る舞いをやめればいいのか、というと凪さん同様そう簡単にはいかない場合が多いでしょう。なぜなら、自己犠牲的な生き方は多くの場合、小さい頃にそのように生きざるを得なかったからこそ、身についたものだからです。自己犠牲的な行動をやめるということは、その方にとって大きな不安を伴います。
しかし、こうした自己犠牲的な生き方をしている方は、こころの奥深くに強い孤独感や怒り、寂しさを抱えている場合が少なくありません。
カウンセリングや精神分析的心理療法は、このような自虐的世話役パーソナリティの方が、その生き方ともう少し自由に付き合っていけるように手助けできる場合があります。「凪のお暇」のようにコミカルに解決していくことは難しいかもしれませんが・・・・。自己犠牲的な自分の性格に苦しんでいる方、そのような自分を変えたいと思う方は、一度カウンセリングや心理療法の活用を考えてみてはいかがでしょうか。
※1 北山修(2017) 定版「見るなの禁止」岩崎学術出版社.
POST入門を読んで(再掲)
POST(精神分析的サポーティブセラピー)入門を読んで
※2024年の精神分析学会で購入した『POST入門』の感想を書きたいと思います。以前のHPに載せていたものを少し修正したものになります。若干書き足したりはしていますが。
いろいろと話題になっている本ですが、基本的にさらっと読めて、特に若い方やこれから精神分析的アプローチを学ぼうと思っている方にはおすすめしたい本だなと思います。
当オフィスではPOSTよりも精神分析的セラピーを実践するほうが多いですが、それでもPOSTもやっていますし、勤務している精神科クリニックでの面接は8割~9割がPOSTだといえます。つまり、本を読んだ上で自分も実践しているな、と感じている心理士の感想になります。
書籍は納得感が強く、「全くその通り」と思える箇所がたくさんあるのですが、何かモヤモヤ感もずっと一緒に生じていました。そのモヤモヤが言葉にならなかったので、学会で執筆者の方々が実施していた精神分析的サポーティブセラピー(以下POST)の教育研修セミナーもオンラインで視聴してみました。そうすることで、徐々に自分の中のモヤモヤ感やPOSTに対する考えが言語化できそうに思えたので、書いてみたいと思います。
1.とりあえず輪郭づけした「POST」
従来名前のついていなかった『分析的な理解を活かした(に支えられた)日常的な面接』にPOSTという名前をつけたという試みはとても有意義なものに感じました。名前がつくとそうした実践を議論しやすくなるからです。
執筆者の山崎先生はセミナーの中でPOSTを、「臨床現場」からボトムアップ的に輪郭づけられたものとして説明していました。ある実践にPOSTという名前をつけて考えようとすると、「POSTは精神分析的セラピーの支持的要素が濃いものとどう違うのか」「理論的な位置づけはどうなるのか」といった疑問や、「そもそもPOSTと輪郭づける必要があるのか」といった意見が生まれます。セミナーでは指定討論の伊藤先生がこうした指摘をされていましたが、この点は私も同感です。ただ、この議論を始めてしまうと、かなり複雑な議論になってしまいますし、考え続けることは大事だと思いますが、そこまで結論を出すことに意味があるだろうか、ということも思います。
おそらく執筆者の方々もこのような意見は重々承知していると思いますが、ただPOSTで重視したいのはそこじゃない、という思いがあるのではないかと思います。教育研修セミナーで山崎氏が『日常臨床の中で精神分析の理論を使っている人たちが、「でもちゃんとした訓練受けてないし、ちゃんとした分析セラピーじゃないから発表できない」となってしまうことはあまりにも勿体ない』という主旨の発言をされていましたが、私も全く同意見です。精神分析理論を活かしながら行っている臨床実践に「とりあえず」名前をつけて、精神分析的セラピーを議論する場とは別に、議論の場を設けるということを重視されているのだと思います。
私が上記のように考えるのは、これまでの私自身の体験がそれを支持するものだからです。私は臨床心理士の修士課程にいる頃から、精神分析的アプローチを学んでいました。臨床現場に出てからは、精神分析的な心理療法や精神分析的な理解に基づいた実践をやってきました(未熟なりにも)。少なくともそういうトレーニングを継続しながら、目の前の臨床をしていたということです。そのときに抱いていたのは2つの相反する思いです。1つは、「(国際基準の)正式な訓練をしていないのに精神分析的な心理療法と称した実践をしている」ということへの負い目、もう1つは「(国際基準の)正式な訓練を経ずにやっている、精神分析的心理療法と称した実践」がユーザー(患者やクライアント)の役に確かに立っている」という実感です(もちろん全く役立つことのできなかったと反省する実践も多々あります)。
※国際基準の正式な訓練、つまり精神分析協会の訓練課程には入っていませんでしたが、個人スーパービジョン、グループスーパービジョン、セミナーでの理論学習は重ねています
また、私は精神分析が全く主流ではない大学院で学んでいたのですが、卒業後に多くの同期から連絡を受けることになりました。それは「精神分析理論を学ばないと病院でやっていくのが大変だ」、「精神病や病態水準を理解するのにおすすめの本はどれ?」、「精神分析の初心者向けの本ない?」といった内容です。本やセミナーを紹介し、彼らとともにその後学びを継続する中で、「やはり精神分析は精神分析家になるとか関係なく日々の実践に役立っているのだな」と実感しましたし、今もその思いは変わりません。
そういった体験を経て、私は当時「精神分析を“(座学で)勉強すること”」の意義についてもっと強調されてもいいのに、と感じていました。精神分析家になるには正式な訓練を経ないといけないけど、精神分析理論を座学で学ぶだけでも日々の臨床実践には活かせる、役に立つ、という感覚があったからです。
2.私のPOST理解
書籍やセミナーを視聴した上での私のPOST理解について書いてみます。まず、POSTなる実践があることは自分自身の日々の臨床生活を振り返っても十分に理解でき、納得感が強いと感じます。
書籍やセミナーの中で出てきた表現を使いながら、私の中でPOSTを言語化するとしたら「精神分析理論を後方に配置しながら、その臨床家が自分の持っている臨床的な手札を駆使して、患者の現実適応を支える心理面接」になるかなと思います。
セミナーの中で参加者の方から「発表者の先生方は使えるものは何でも使ってるんですか?実際どんなものを使っているんですか?」という質問がありました。節操なく使うことへの警鐘をならしつつ、ある先生は「腹式呼吸の練習」、別の先生は「本の紹介」などを例として挙げていました。私自身は上記の2つを行うことはあまりないですが、助言、心理教育のほかにCBT的、行動療法的な介入は用いたりします。POSTを実践されている先生方は上記の介入に対して「私も使っている」とか「私はソリューションの技法が多いな」などいろいろな感想があると思います。ここには手札の違いがある(重なりももちろん)ということですが、どれもPOSTをやっていることにかわりはないでしょう。
つまり、POSTをPOSTたらしめている最も重要な要素は「後方に精神分析理論を置いている」ということだと思います。
ここまできてやっと私の当初のモヤモヤ感に入るのですが…
私が感じたモヤモヤ感は、『POSTの書籍やセミナーの中で出てきた「心に留め置く解釈」、「転移外解釈」、技法ではないが「自我を支持する」「退行抑止的に関わる」という姿勢・方針などはPOSTの中でもかなり「難しい」技法ではないだろうか』というものです。
続きます。
3.POSTのトレーニングについての私見
関先生があとがきに「『POSTを学びたい』と思った時に何をどう学べばいいのかについては手がかりが何もなく、それについての議論は充分にはされていません」と記載しています。確かに現段階でそうなのだと思います。
重要なことは、今現在「POSTを学んだ」という人はいないということです。発表者の方もそうだと思いますし、私もそうです。POST、つまり『精神分析理論を後方に置きながら様々な手札を駆使して行うサポーティブセラピー』を行っている方々が学んできたのは、精神分析(理論や介入など)でしょう(もちろんその他の手札になるものも同時並行的に学んでいるわけですが)。当たり前といえばそれまでですが、精神分析理論を後方に配置するためには、『POSTを学ぶ』のではなくて、精神分析理論を学ばなければいけないということです。
ただこのときに「学ぶ」にはスペクトラム、または段階、様々な方法があると思います。精神分析理論を学ぶときには座学などの知的な理解から、ピアグループ、ケース検討会、グループスーパービジョン、自分で行う実践、個人スーパービジョン、個人セラピーなど体験的な学びまで幅があります。その方の経済状況や地理的な問題などによって、どのような学びが行えるかは異なります。しかし、POSTにおいて大事なことは『どの学びの段階にいる人であっても、POSTを実践することは可能だ』という点でしょう。
ただそのときに、学びの段階によって積極的に使用できる技法は異なるのではないか、というのが私の考えです。ここで私が指摘している点は、山崎先生が書籍で書いている「使いやすい精神分析」と「使いにくい精神分析」に関連した話です。
書籍のp26に「訓練セラピーなしでも知識は活用できると述べましたが、精神分析の治療論や技法は訓練セラピーなしに日々の臨床実践にそのまま役立てることは難しいでしょう」と山崎先生は書いています。そして、あとがきで関先生は、POSTは訓練セラピーなしでも行える実践であるということに触れています。この論からすれば、精神分析の治療論や技法はPOSTの枠の中には入っていないことになります。つまり、「心に留め置く解釈」や「転移外解釈」は精神分析の技法論だと思うので、訓練セラピーなしには使用できない(使用しない方が良い)、となってしまいます。
ただこれはもちろん書籍を批判したいわけではなくて、「程度問題だ」という話に落とし込めるのではないかと思います。
つまり、精神分析理論を座学で学んでいるだけの状態の場合は、見立てやアセスメントに理論を活用しつつ、介入としては精神分析由来の技法を使用することは控え、そのほかの手札を駆使する必要があるでしょう。そこに、体験的な学習が重なるにつれて精神分析由来の技法も少しずつ手札として使用していく(もちろんPOST的な注意点を意識しつつ)のが良いのではないか、ということです。これは体験的な学びを経るまで分析的技法の使用を禁止すべきとか、段階によってあなたはここまで使っていいけどこれは使ってはダメ、とかそういう管理・支配的なこと言いたいわけではありません。精神分析理論を後方に配置しているわけなので、分析由来の技法の使用については慎重であるべきだろう、ということです。
このように考えるのは、やはり体験的学習の重要性は強調しても強調しきれないほどある、と私自身がこれまでの経験上感じているからです(書籍でもそのことは繰り返し述べられています)。書籍から精神分析は学べない、というのはよく聞く言説ですし、実際私もそのように思っています。
たとえば「退行」という現象を知的に理解することと、ある種の設定の中で患者が退行に至るのを目の当たりにすることは明らかに異なりますし、そういう体験を経て、「こういうことだったのか」と知的な理解が腑に落ちることは精神分析理論を学ぶときには数限りなくあります。理論学習だけではなく体験的学習が重なる中で「自我を支えるとはこういうことか」「退行を抑止するとはこういうことか」ということが“徐々に経験的に”わかってくるのだと思います。※そして常に自分が「わかった」と思ってそこで止まってしまっていないか振り返り続ける必要があるでしょう
このように書いてしまうと、結局精神分析の体験的な訓練を経ないとダメってことじゃないか、と言われてしまいそうですが、そうではありません。POSTの中にもスペクトラムがあるということです。
ここまでの要点
・POSTを学ぶとは、結局精神分析理論を学ぶこと
・理論学習をすることでPOSTは使用可能になる
・体験的な学びが深まることで、使用できる精神分析由来のPOST技法が使用できる可能性が増える
私としては『精神分析を学びながら、目の前の臨床実践と格闘する中で、その人のPOSTが形作られていく』という感覚が一番近い気がします。
上記のように私は考えています。そのため「POSTを学ぶためにはどうすればいいですか?」という質問をされた場合には「まず書籍を読み、セミナーに行き、座学で学ぶ」と答えるのが現段階でベターなのではないかと思います。加えて、その方の経済的、地理的なリソースによってはピアグループやケース検討会などの体験的な学びに触れることをお勧めするという感じでしょうか。そして目の前の臨床に向き合うしかない。目の前の臨床は精神分析理論を学ぶだけでは到底太刀打ちできません。自分の手札をいくつか持つ必要がきっとあると思います。そうやってPOSTが形作られていく。
まとめると、POSTのトレーニングとは、「精神分析理論を座学で学ぶこと」と「臨床的な手札(他アプローチの)を増やすこと(いくつかを深めるでも良い)」という二つの軸から形成されるものだと私は考えています。この二つを十分に学ぶことで、POSTは「使用できる」と思います。そしてさらに、精神分析における体験的な学びの要素が加えられるなら加えた方がもちろんいい、と思います。加えた方が精神分析由来のPOST技法を手札に少しずつ加えることができるということです。精神分析理論を学び始めの方や若い方にとっての指針・方針としては上記のような理解が現実的ではないかと思います。
最後に
POSTは、中身を議論するために「とりあえず切り取った」概念だと思うので、「とりあえず切り取った」ということ自体を批判的に考えるのではなく、POSTなる実践の中身について議論が進めばいいなと私自身は思っています。